『不実な美女か 貞淑な醜女か』
米原さんの文章は、密度が濃い。
ふつう一文と一文とのつながりの間にある、その他の一文には予定調和的な使い古された言葉がはさまっているものであり、読者はそこで安心して読み飛ばして次の一文にかかるものなんだと思うのだけど。
彼女の文章は緊密に全てが個性を主張したメッセージ性のあるものなんですね。読みにくいことはないのだけど、一文がとてもとても長い。一文をあの長さで引っ張っておきながら読み手を惹きつけておける文章力は見事だと思います。
言いたいこと、伝えたいことがあふれていて、なおかつそれを表現する言葉と能力を持っておられますから、そんなつもりがなくてもついつい全てが過剰に意味を込めたものになるのではないかと思います。
- 作者: 米原万里
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1997/12/24
- メディア: 文庫
- 購入: 4人 クリック: 63回
- この商品を含むブログ (110件) を見る
通訳しにくい内容の、異国語・発言を訳さねばなならない場面において。
○源発言者の言葉を直訳せず、ムードを
母国(ここでは、日本人通訳者が日本人へ向けて、の意味とします)語
文化風味に自分で創作し、
それを通訳という名のもと母国語圏の人へ伝える。
○源発言者の言葉を忠実に直訳する。
つまり上は不実な美女か貞淑な醜女か、の分れ目なんですが、非常に興味深いと思いませんか。
前者の自分で創作した言葉を“通訳”として発するというのは、ある意味、通訳者の領分を越えているわけです。通訳者は、ただただ通訳、単語の変換だけしておればよいのです。だってただの一介の通訳者なのですから。
でも「単語」はすぐ隣に「言葉」につながっていますし「言葉」は、またすぐ隣に「文化」へとつながっています。そうしてみると、単語を直訳することが源発言者の意図を正しく異国の人へ伝えられることになるとは限らない。困ったことです。
意図を汲んだつもりで意訳すれば、必ずそこに通訳者の価値観や世界観、思想が混じってしまう。ややもすると、通訳者の限界が源発言者の思考レベルを下回っていた場合、源発言者の奥行きのある発言がつまらないものに成り下がってしまう可能性も否めない。
他の側面からみると。
瞬時の訳出に追われる通訳者は、源発言者の言っている意味は概念的に分かっていながら、該当する母国の訳語が無い、または適切に変換できるスキルが備わっていないというシチュエーションに立たされ、困惑する場面があります。
時間の都合上(0カンマ数秒という世界)、何か訳してその場をもたせなればならない、そんなときに、回避策で準備しておいたセンテンスを口走る。あるいは源発言者の語気やムードだけ適当に訳しておいて、さらっと急場をしのぐということもある。
不実な美女ですね。
まぁこれで何事もなかったかのように異国両者間の対談を続けてゆける。不実であることを知っているのは通訳者本人だけなわけです。